昭和48年5月24日朝の御理解
 
 御理解第四十五節
 『世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、
  三宝さまは実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生 
  と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心
  して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
  とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天
  で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことは、
  あるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりす
  ることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取り
  はずすぞ。』
 
 三宝様踏むな、穀物の実、先日からここん処を頂いたのは三宝様ということ仏法僧という仏教で一番大事にされる、仏様を拝むことを忘れてはならない。教えを大事に頂かなければならない、それを教えてもらう、いうならば、僧ですね。ゆわゆる、坊ん様。
 お取次ぎを頂く先生を軽う見てはならないと、大事にしなければならない、金光教ではそこん処同じですはね、御道の信心でこの御祈念を抜いたらそれだけで私はおかしい事になってくると思うんですね。
 同時に話しを聞いて助かる道というのですから、やはり方ですね、おかげを頂く法 
、 天地の大法といってもいいでしょう、天地の道理といってもいいでしょう、その道理を聞いて道理をわきまえて、道理にもとずいた生き方をする、そうお取次ぎを金光教の場合は取り分けそうです。
 金光大神のお手代わりとしてお結界の奉仕をして下さる先生を金光大神として拝めるようにならなければとさえいわれる位ですからね、だから、勿論そうです。 
 同時に当然ここでは穀物の実と言われるんですから穀物なんかでもそうです、私達の子供の時にはご飯粒が下に落ちますとそれを拾って食べんと婆が喧しかった。
 食物を粗末にするとあじがひたえごいつにつくぞ、」というぐらいに大事にしたのですけれどもこの頃は考え方が、いわば、合理的になってきたというんでしょうかね、不潔とか不衛生とか云ったような、畳に落ちた穀物ということではなくて、本当にお粗末にしてはならない物をお粗末に、例えば食物でもお粗末にしてるようなことも沢山あろうかと思うです。
 金光様の信心さしてもらうなら、本当に一粒のお米でも押し頂く心持、お皿に残ったお醤油でも、ゆすいで飲まずにはおられない心の状態にならなければ、おかげを頂かんです。
 と言うように三宝様ということはいろいろ説かれますけど、今日ここん処をで一番ありがたくここん処を頂かんならんことは「頭を下げることを忘れる」ということです。頭(ず)が高うなる、おかげをおかげを感じんようになることです。
 人から先生と呼ばれたり身代が出来たりするともう本当に何か、貧乏な人を見るとまるきり階級が違うような見方をする人がある。やややっぱりいけません。
 ゆわゆる、人間尊重を思っとられる、尊重せずにはおられない、人間だけではありません、一切のことを尊び重んじなければなりません、そういう心の状態が信心、だんだん徳を受けて実がいれば入るほど穀物が穂がたれていくように、私ども徳を受けていけばです自然と下がるでしょうけれども、徳がないからここん処をいつも心掛けていなければならない、頭を下げるということ、私はここん処を一番大事に感じたですから、そこん処をひとつ皆さんも今日は頂いていただきたいと思います。
 そこで今日は三宝様踏むといわれる「三宝様」ということを、いわば、信心をさせて頂くようになって受けたおかげのこと、それは「信心はせんでもおかげはやってある」というおかげを深く分かっていくことが信心でもあります。
 けれどもこれだけは特別にくださったおかげを皆さん実感するでしょう、あの時あのようなおかげを頂いた。
 私はそのおかげをおかげと思わず軽んじるようになると、ありがたいと思うこころがなくなってくる。
 例えば善導寺の原さんここに居られるから原さんの事を云うなら、昌一郎さんがもう、医者は「もう難しい、だから便りをいう時には云うて親戚の方達は告別式の準備をしてから集まられた、と程しの大病からもうそれこそ、奇跡的なおかげを受けられた、ですから、この時には毎年お赤飯を炊いて御礼の参拝があります。
 同時にそのお礼を忘れない印に原さん達ご夫婦と云う神様との約束でしたけれども、いまでは昌一郎方夫婦も、今お父さんが具合が悪くて休んでおられますから行けませんけど、もう一家を挙げてお礼参拝される、そのお礼参拝が、だからあの時のことを思うたらという処からお礼参拝なるようにならなければならぬ。
 教祖さまもね「おかげを受けたことを忘れねば結構である。」と仰っとられる、ところがなかなか難しい。
 原さんのように毎日毎日もう何十年間朝参りを続けておってもです、ついついおかげの、まだおかげの頂きたらんような思い方が時々頭をもたげることもあろうかと思う。
 「うちはどうしていつまでもおかげ頂き切らんじゃろうか、」否、頂いていることを忘れてそういう思い方をする時には頭を下げることを忘れている時だと私は思うですね。
 それだから、三宝様というのはおかげということ、おかげを頂いて、教祖様も「おかげを受けたことを、始めにおかげを受けてきたことを忘れなければ信心は結構である。」と もうそれこそ頭を下げ続ずけに下げておれれるようないわば、おかげを尊び重んじる心ということです。
 昨日小倉を富永さんご夫婦先生の方が選ばれてヨーロッパの方におい出ておられる、学会があちらである、こちら選ばれて代表でおいでられたわけです。ですから羽田まで奥さんが送られましたから、その時に18年も前、先生のおかげで助けられたという患者さんが、今長崎かどっかの方だそうですが、東京でたいへんお商売が、事業が当たっておかげを頂いておられる、18年も前に富永先生のおかげで命を取り留めて頂いたというのです。
 ですから、その事に対する恩に報じなければという訳でありましょうけれども、東京におい出ました機会にそれこそあちらのご夫婦が何日間か付き切りでもう一切の事を、東京見物は云うに及ばず、水戸あたりまでも案内をされて、沢山のお土産を頂いて帰ってみえとられる「信心のある人でも勝たんですね」と云うたことでした。
 医療代をタダにしてやるとかいうのでないですから、どうとかでないですからね
お医者さんに対する病院に対する支払いはちやっとしているに違いありません、もちろんしてあるです、それでもあの時に富永先生のおかげで助かったということを、18年後の今日まで忘れずに、なにか形にあらわさなければおられない、「これから生涯のこともまたお願い居たします」と帰り際に云われたということでございましたが。
 「本当に信心がある者でも勝たんね」と思いました、例えばおかげを頂いてお礼はあの時したから、それですんだかのような思い方をしている人がいる、あの時もし一歩間違っておったらどうなっていただろうか、今日の私があったであろうか、と例えば思うただけでも、地を低くしなければおられない、そのおかげを尊び尊重しなければおられない、尊び尊重する、そういう心がなにをしても繁盛するおかげを頂いておられるんだと私は昨日思うた。
 昨日月次祭が終わりましてから、秋永先生が「もう先生あれから六年になります今日が六年目です」私何のことか分からなかった。「一旦あの世に行ってかえってきてから丸六年になります」「あーあの時の」秋永の親子兄弟、ああゆう大事故に遭われた時のことをそれこそ信心に六年前のことを改めて聞かせてもらうて、改めてありがたいとお礼を申し上げたことでした。
 もう本当にあの世に行くということは、信心の力徳を頂いていくならば決してくるしいことではない、それこそ、「ありがとうしてありがとうして、もったいのうしてもったいのうして、」もうとにかく寝ているこのベットの上の布団がまるきり、人肌と云うけれども、人肌よりももっとすべすべした、ふんわりした感じだった。
 丁度親先生が何日か前に私行きました、その時なんかの私の気持ちというものは、もう天に登るというが、天にあり、極楽にありというのはこういう状態であろうかと思うような状態で、私は始めてあんなに詳しく六年ぶりに聞かせて頂いたんですがね、本当にそうです、お互いに信心させて頂いてお徳を受けていくならばですね、これは私二十何年前に、椛目で上滝さんとか荒木さんとか、3畳のところで三人一緒にやすんでいるといったような修行さして頂いてる時分でした。
 もうそれこそ深いーい処に降りて行くところでした、落ちるでなく、降りて行くという感じでした、もう気持ちのよいこと、「ありがたいなー、もったいないなあー」と
夢のなかですからね、随分の時間でした、それから目が覚めて、神様が「あれがお国替えの状態じゃ」と仰った。  
 あれは誰でもではない、やはり信心の徳を受けている者は、私昨日秋永先生の話を聞かせて頂いて「本当に信心して徳を受けておかないといかんなあー」と話したことでした。 本当に信心の徳を受けて大往生のおかげを受けられるということはもう「ありがとうしてありがとうして、もったいのうしてもったいのうして」いう、私は堤さんのお国替えなんかでもそんなことではなかったろうか、本人としては、その中におかげをいただかれたんだと私は思います。
 ですから秋永先生がその時のことを思うたら一切が問題ではないという訳です。どういう問題があっても、どういう苦しいことがあっても六年前のあの事を思うたらありがたい、問題が解決する一切、「おかげを受けた時のことを忘れねば結構である」と教祖さまが仰っておられる、そこに「ありがたい、もったいない、」いよいよ「頭を下げることを忘れると云う事のない、天で頭を打つことのない慢心が出ておかげを取り外すことのないおかげをいよいよ積んでお徳にしてゆかねばならんと思うのです。
 今日私は「頭を下げることを忘れる、喉元と通れば熱さを忘れる」自分なんかどうしてこげんおかげをいただけ切らんじゃろうか」という思いの時には頭(ず)が少し上がっている時と思うて、あの時のことを思うて頭を下げることを忘れんですむ信心それは御神徳を受ければいつも頭が下がっているでしょうけれども、御神徳を受けさしていただくためにも私達はそこに心掛けを持って、只、頭をペコペコ下げるという意味ではなくて、心からあの時のことを思うたらという思いで頭を下げさして頂く、もちろん、信心による仏法僧が身についていけば、尚更のこと信心のありがたい尊い、一切が尊び重んじる心が付いてまいります、そういう私は姿が徳を受けてる姿。
 徳を受けて、今申しますように必ず一辺は通らなければんらない、いわゆる、難関と
云うか関門です。
 ですから私共のお国替えの時に、さあーといっても間に合わない、それこそありがとうして有り難とうして、それこそ、教祖様ではないですけど「心安し」とお礼を申さして頂きながらお国替えできる程しの信心の徳を身に付けていきたいとこう思います。
 それにはお互いが本気で頭を下げることを忘れんですむ信心を頂かせていただきたいと思いますね。    どうぞ
                          入力 ひろさき